Reading №4_6

Chebakova Irina

トロッコ

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トロッコ

小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村外れへ、その工事を見物に行った。工事をーといったところが、ただトロッコで土を運版するーそれがおもしろさに見に行ったのである。

トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後ろに佇んでいる。トロッコは山を下る

のだから、人手を借りずに走って来る。煽るように車台が動いたり、土工の袢纏の裾がひらついたり、細い線路がしなったりー良平はそんなけしきを眺めながら、土工になりたいと思う事がある。せめては一度でも土工といっしょうにトロッコh乗りたいと思う事もある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然とそこに止まってしまう。と同時に土工たちは、身軽にトロッコを飛び降りるが早いか、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押す事さえできたらと思うのである。

ある夕方、―それは二月の初旬だった。良平は二つッ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは泥だらけになったまま、薄明るい中に並んでいる。が、そのほかはどこを見ても、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力が揃うと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はその音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、―トロッコはそういう音とともに、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登って行った。

そのうちにかれこれ十間ほど来ると、線路の勾配が急になり出した。トロッコも三人の力では、いくら押しても動かなくなった。どうかすればくるまといっしょに、押し戻されそうにもなることがある。良平はもういいと思ったから、年下の二人に合図をした。

「さあ、乗ろう?」

彼らは一度に手をはなすと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初おもむろに、それから見る見る勢いよく、一息に線路を下り出した。その途端につき当たりの風景はたちまち両側へ分かれるようにずんずん目の前へ展開して来る。_

良平は顔に吹きつける日の暮れの風を感じながらほとんど有頂天になってしまった。

しかし、トロッコは二、三分の後、もうもとの終点に止まっていた。

「さあ、もう一度押すじゃあ」

良平は年下の二人といっしょに、またトロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かないうちに、突然彼らの後ろには、誰かの足音が聞え出した。のみながらずそれは聞え出したと思うと、急にこういう怒鳴り声に変った。

「この野郎!誰に断ってトロの触った?」

そこには古い印半纏に、季節外れの麦藁帽をかぶった、背の高い土工が佇んでいる。__そういう姿が目にはいった時、良平は年下の二人といっしょに、もう五、六間逃げ出していた。__それぎり良平は使いの帰りに、人気のない工事場のトロッコを見ても、二度と乗ってみようと思った事はない。ただぞの時の土工の姿は、今でも良平の頭のどこかに、はっきりした記憶を残している。薄明りの中に仄めいた、小さい黄色の麦藁帽、___shいかしその記憶さえも、年ごとに色彩は薄れるらしい。

その後十日余りたってから、良平はまたたった一人、午過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコのほかに、枕木を積んだトロッコが一りょう、これは本線になるはずの、太い線路を登って来た。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼らを見た時から、なんだか親しみやすいような気がした。「この人たちならば叱れない」__彼はそう思いながら、トロッコの側へ駈けて行った。

「おじさん。押してやろうか?」

その中の一人、__縞のシャツを着ている男は、俯向きにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。

「おお、おしてくよう」

良平は二人の間にはいると、力いっぱい押し始めた。

「われはなかなか力があるな」

他の一人、__耳に巻煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。

そのうちに今にも線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも好い」__「良平は今にも言われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙々と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、怯ず怯ずこんな事を尋ねてみた。

「いつまでも押していて好い?」

「好いとも」

二人は同時に返事うをした。良平は「優しい人たちだ」と思った。

五、六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。そこには両側の蜜柑畑に、横色い実がいくつも日を受けている。

「登り路のほうが好い、いつまでも押させてくれるから」__良平はそんなことを考えながら、全身でトロッコを押すようにした。

蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路は下りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と言った。良平はすぐに飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑の匂を煽りながら、ひたすべりに線路を走り出した。「押すよりも乗るほうがずっと好い」__良平は羽織に風を孕ませながら、当り前の事を考えた。「行きに押すところが多ければ、帰りにまた乗るところが多い」__そうもまた考えたりした。

竹薮のある所へ来ると、トロッコは静かに走るのを止めた。三人はまた前のように、重いトロッコを押し始めた。竹薮はいつか雑木林になった。爪先上がりの所々には、赤錆の線路も見えないほど、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖の向うに、広々と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、あまり遠く来過ぎたことが、急にはっきりと感じられた。

三人はまたトロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走ってい行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれれば好い」__彼はそうも念じてみた。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼らも帰れない事は、もちろん彼にもわかり切っていた。

その次に車の止まったのは、切崩した山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へはいると、乳呑児をおぶった上さんを相手に、悠々と茶などを飲み始めた。良平は独りいらいらしながら、トロッコのまわりをまわってみた。トロッコは頑丈な車台の板に、跳ね返った泥が乾いていた。

少時の後茶店を出て来しなに、巻煙草を耳に挟んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「ありがとう」と言った。が、すぐに冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油の匂がしみついていた。

三人はトロッコを押しながら緩い傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心はほかの事を考えていた。

その坂を向うへ下り切ると、また同じような茶店があった。土工たちがその中へはいった後、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」

彼はそう考えると、ほんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪を蹴ってみたり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押してみたり、_そんなことに気もちを紛らせていた。

ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木に手をかけながら、無造作に彼にこう言った。

「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊まりだから」

「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」

良平は一瞬間呆気にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三、四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、__そういう事が一時にわかったのである。良平はほとんど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って付けたようなお時宜をすると、どんどん線路伝いに走り出した。

良平は少時無我夢中に線路の側を走り続けた。そのうちに懐の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側へ抛り出すついでに、板草履もそこへ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋の裏hえじかに小石が食いこんだが、足だけは遥かに軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂路を駈け登った。時々涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪んでくる。__それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。

竹薮の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山の空も、もう火照りが消えかかtっていた。良平はいよいよ気が気でなかった。往きと返りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡れ通ったのが気になったから、やまり必死に駈け続けたなり、羽織を路側へ脱いで捨てた。

蜜柑畑へ来るところには、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば_」

良平はそう思いながら、すばてもつまずいても走って行った。

やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。

彼の村へはいってみると、もう両側の家々には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲んでいる女衆や、畑から帰って来る男衆は、良平が喘ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、かれは無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。

彼の家の門口へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲へ、一時に父や母を集まらせた。ことに母はなんとか言いながら、良平の体を抱えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜り上げ啜り上げ泣き続けた。その声があまり激しかったせいか、近所の女衆も三、四人、薄暗い門口へ集まって来た。父母はもちろんその人たちは、口々に彼の泣く訣を尋ねた。しかし彼はなんと言われても泣きたてるよりほかに仕方がなかった。あのと遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら。。。。

良平は二十六の年、妻子といっしょ東京へ出て来た。今ではある雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然なんの理由もないのに?__塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細々と一すじ断続している。。。。